サイト管理人の私見による注釈
 女帝のお話

 
開山当時の元正(げんしょう)天皇は女帝です。人皇(にんのう)とは神代と区別して初代神武天皇以後の天皇のことです。
 元正天皇の在位は715年10月3日からとされますから、開山も10月以降ということでしょうか。どちらにしても2015年が開山1300年の節目であることには違いありませんし、記(712年)紀(720年)の編纂とほぼ同年代であり、稀に見る古刹と言えるでしょう。

 開山は行基菩薩によると言われます。当初は本宮山にあって正法寺と呼ばれました。正法寺は
孝謙天皇(こちらも女帝)の御代に勅願寺(時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺)に定められました。その後の移転に関して、一説には燈明が牛窓の海に反映して漁に支障が出るので移したとも言いますが、火災もあり、参詣や寺務のことがあって現在地に移されたのでしょう。地名にしたがって円城寺と寺号を改めて、本宮山観音院円城寺となりました。ご本尊は千手観音です。開山当初は法相宗に属したのかなと思いますが、最澄・伝教大師が比叡山を開かれてより天台宗となりました。

 元正天皇の父(草壁皇子)方の祖父は40代天武天皇、同祖母は41代
持統天皇、母(43代元明天皇-710年平城遷都)方の祖父は38代天智天皇です。45代は東大寺大仏を建立した聖武天皇(元正の弟42代文武天皇の子、つまり元正天皇の甥)です。聖武天皇と光明皇后の子が上の勅願寺のところに出た46代孝謙天皇です。孝謙天皇も女性天皇で後に重祚して48代称徳天皇となられます。

このころ女帝が多いです。33代
推古天皇(古事記に記載された最後の天皇)に始まって、35代皇極37代斉明天皇(重祚)、41代持統、43代元明、44代元正、46代孝謙・48代称徳(重祚、古代最後の女帝かつ天武系の最後の天皇)まで、16代のうち8代が女帝です。円城寺の開山当時は女帝の多い時代だったのですね。直接とは言わないまでも、元正、孝謙の両女帝とかかわりがあったでしょう。因みに、これだけ女帝が多いのは、皇位継承問題の緩衝期間を設けるのが目的であり、こうした中でも、男系男子の伝統は繋がっているとされます。

 NHKのテレビドラマ「大仏開眼」では石原さとみ演ずる阿部内親王(後の孝謙天皇)が大変美しく、印象的でした。阿部内親王は唐から帰国した吉岡秀隆演ずる下道(しもつみち、のちに吉備)真備に学び、また彼を重く用いたという話でした。(このほか、聖武天皇:国村隼、光明皇后:浅野温子、行基菩薩:笈田ヨシ、玄昉:市川亀治郎-現猿之助など)。真備の出自は吉備の下道(現在の総社・倉敷)とされます。現在、近くにJR上道駅が有り、また今は岡山市に編入されましたが以前は上道(じょうとう)という郡や町がありました。上道(かみつ道)と下道は対をなしていたでしょう。上道は地名として残りましたが、下道はそうなりませんでしたね。井原鉄道には吉備真備駅があります。吉備真備を用いつつも藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横を許した(後に鎮圧)孝謙天皇は、一代置いて称徳になってからは、病を癒してくれた道鏡を重用し、そのあまり、意に沿わぬ託宣を伝えた和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と呼ぶに至ったといわれます。

 そのもう一人の吉備の人である和気清麻呂はその後宝亀元年(770年)には罪を許されて都に戻ります。長岡京、平安京の造営に功績をあげていますし、国造にもなり復権しています。天武系は称徳天皇で終わり、次の弘仁、桓武天皇は天智系となっています。桓武天皇のとき、最澄によって比叡山が開かれ天台宗本山となりました。清麿は狭虫女からもとの広虫女に復帰した姉とともに最澄の開山を助けたといわれます。この辺りのことを書いた小説に栗田勇さんの「最澄」があります。のちに最澄となる広野の苦悩と精進が描かれ、教養小説のような趣があります。天台宗がその設立当初は既存仏教に対するアンチテーゼとして展開されたことがわかります。

 古代の吉備や正法寺と大和や平安朝廷とのかかわりはどんなものだったのでしょうか。

                                     
この項を書くにあたっては、Wikipedia 「元正天皇」のページなどを参考にさせていただきました
 
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 記紀 古事記と日本書紀

 円城寺の開山1300年に前後して、2012年は古事記編纂1300年にあたり、また2020年には日本書紀編纂1300年を迎えます。
 今は記・紀ともに、少なくとも初等教育の場では、封印されているとも言えるのではないでしょうか。小学校1年生で終戦を迎えた私なども学校で記紀や神話を学んだ記憶はあまりありません。わずかに海幸山幸や因幡の白ウサギの話の記憶がある程度です。軍国主義や国粋主義と結びつけてしまう色眼鏡は外して、自国の神話として、民族の文学遺産として、素直に受け入れてはどうでしょうか。批判があればそのうえで批判すればよいのです。

 物事を表現するのに、ギリシャ神話やキリスト教聖典、あるいは中国の故事に拠る言葉を入れる(国会答弁に歌謡曲を引用する総理大臣もいましたが)のと同じように、あるいはもっと身近な共通の知識として、古事記や日本書紀の記載を引用するようであってほしい気がします。しかし語るにしても、聞くにしても、知識が乏しすぎます。神話時代は、近世歴史とともに、私たちの知識から欠け落ちているのではないでしょうか。私は国粋主義者でもストロングナショナリスト でもなく、またその対極でもなく、ただ情報の極度の偏りはよくないと思っているだけです。聞くところによれば、諸外国では初等教育で、社会科とは独立して歴史を教えるといいます。また歴史家トインビーの言葉に、「12、13歳までに国の神話を教えない国は100年もたずに滅びる」というのがあるそうです。日本の場合どこを起点の100年なのだろうと心配したりします。

 ギリシャ・ローマ神話は日本語で出版された書物も多く、かなりよく知られています。ギリシャといえばパルテノン神殿が思い起こされますが、かなり傷んだ遺跡としてでしかありません。それに対して我が国の伊勢神宮は20年ごとに建替が行われ、建築技術とともに今日に伝えられています。出雲大社も同様で、史跡として(遺跡としてではなく)、現代に生きて伝わっています。神話をほとんど抹殺しているかのような状況のもとでも、このような神殿が、皇室とともに実在し、一定の信仰または尊崇を受けています。神話は半ば封印されつつ生きています。極端に振れない限り、民族が滅ぶことにはならないのでしょう。