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     本堂       (写真は「どんなお寺」ページに掲載)
 弘化三年(1846)の再建、7間(約12.6m)四方、棟の高さ53尺(約16m)、屋根は本来茅葺であったが現在は銅板で覆われている。用材のほとんどは欅で柱は全部円柱。
 内、中、外陣とも格子天井で一格子間ごとに極彩色の絵がはめてあり、多くは花、ごく少数の鳥、動物の図があリ、一枚ごとに「森上村中」「神瀬拾人組」「年末、秋蔵・新介」など奉納寄進者の記録がある。
 裏堂がついて謂所天台造りとなっている。正面御拝の桁の上にある彫刻は雲龍に松と仙人の構図で精巧なノミ跡は大工棟梁「邑久郡宿毛村、田淵栄造源勝永」の作、この他堂の三面桁上に多くの彫刻がある。
 正面に懸る山号の扁額は備前藩主池田治政公筆、横162cm縦90cm、欅製である。
   
   阿弥陀堂
 所有物明細帳(明治31年)に「由緒、天保五年舜凌法印再建」と記されているのが旧阿弥陀堂で、その前年の大火で全堂字焼失の後に逸早く再建され、十年余り仮りの本堂とされていたもの。
本堂落慶の後そのまま新たに他所から弥陀三尊を迎えて本尊とし、阿弥陀堂として伝えられてきたが、草葺、間口三間半、奥行三間の旧堂は罹災直後の応急の建物らしく、様式、用材とも粗末で、百数十年の風雨に荒廃甚だしく、昭和48年、先代住職の発願と檀信徒十万有縁の熱誠に依って改築した。
新堂は総桧造り、三間四面、寄せ棟銅板葺。内陣須弥檀下に鉄筋コンクリート造リの納骨室を附 設する。安置する弥陀三尊像は由緒未詳ながら美事に立派で、如来像御丈四尺七寸五分、菩薩像は双方とも三尺四寸四分である。 前述の通リどこかのお堂から招来遷座せられたものと推量されるが、詳しい調査によっては或は意外な事実が発見されるかも知れない。

   
       
   鎮守提婆宮  (護摩堂の写真は「どんなお寺」ページに掲載)
本堂の左後方、石段を上ると老杉巨木の杜に囲まれて円城寺一山の鎮守提婆宮がある。前面に護摩堂、その後方に鎮守本殿がある。本地弁才天権現を山内守護の神として奉祀されたもので、往古よりしばしば奇瑞があり霊験あらたかなことで、寺域の鎮守としてのみならず古くから加茂郷の総氏神と崇められ、郷内はもとより広く備前・備中・作州方面にも崇敬者が多く、今に毎月の参詣者も続いている。

当山縁起書に「…弘安年蓮信法印再興せり此人持経の功力にて弁才天女常に擁護あり白狐時々現て不思議の事ども告侍るとかや。このゆへに社を建、天女の像を安置して鎮守と崇め奉る即ち今の提婆の社なり(提婆は天といふの梵語なり此神天女なればかくなずける也)−−」とある。

本殿は木造桧皮葺、1間半四方であるが床下から五重の桝を組み上げ、また上部龍頭の桝組や正面御拝、両破風に見る精巧華麗な彫刻の数々は近在に稀な建築として有名である。
毎月二十八日の縁日、春(四月)秋(十月)には大祭を恒例とし稚児行列を先頭に一山憎侶、六角御神輿のお練り(御神幸)も珍しく、縁談、商売、傷病治癒、受験祈願などの現世のご利益霊験があらたかなところから広く遠近の信者の参詣や人出で賑わう。
古く信者の寄進奉献された石造の唐獅子、常夜灯籠、鳥居などがあり、神社神道の一派、神仏混合時代の遺影など或はまた「提婆」の文字、呼称から法華経文中の「提婆達多」を祀るなど誤伝されることがあるが、起源的には全く関係なくこれらの説明は誤りである。本堂と同じく弘化3年の再建、大工棟梁も同人である。

   
     
  宝篋印石塔
本堂の北側約100m飛地境内、北ノ坊跡にあり、全体花筒岩で造られ総高3.13m、基礎石に「延文二年八月上旬、大願主憎連有、大工沙弥碩隆」と銘が刻まれて建立の年代が明らかである。往年から岡山県金石誌、御津郡誌等にも紹介され、昭和25年2月岡山県重要美術品として県から指定(第30号)を受け、同34年3月改めて県教委から重要文化財として指 定(有第130号)されている。

昭和43年解体修復工事の際、塔下の地中石室の発堀調査によって多数の仏像(素焼・土偶)が発見された。石室は大小の白然石をそのまま積み、広さ約1.3m2(凡そ畳の三分の二程度)深さ約1.3mで、その内部のほとんど三分の二くらいまで仏像群で埋まっていた。
                                                               
宝篋印石塔 
   出土した土偶千手観音
原形の完全なものは千手観音像約2400体、地蔵菩薩像約1600体、その他大小に損壊したもの約1000体分ほどと推定され、いずれも総丈6〜8cm、手足の五指、台座の装飾まで克明に刻まれ、青緑色の彩色や銀粉を塗付したものがそのまま多数残っており、非常に美しく精巧なものである。他に少数の土器、仏具類の一部などが発堀された。因に宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼経によるもので、この経には仏の一切の徳を納めると説かれ、この経を書写して塔中に収めることで仏の冥加を被り、あらゆる願いごとがかなえられるとの信仰から広く普及したものと考えられている。
 
   
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