どんなお寺  History

開山  -- 円城寺の歴史

当山は、人皇四十四代(奈良朝二代)元正天皇(女帝の話)在位中の霊亀元年(715)、行基菩薩により本宮山山頂に正法寺として開基されました。御本尊は千手千眼観音。本宮山は海抜583mの山で、現在の円城寺からはほぼ東方4km弱に位置します。
 縁起書によると開山以来たびたび奇瑞、奇蹟、観世音の示現があって、朝野、真俗貴賤を問わず等しく信仰の道場となり、四十六代孝謙天皇の御代には報恩大師によって勅願備前四十八ケ寺の一に加えられました。....

本堂

その後も第八十代高倉天皇をはじめ歴代の皇室などから多くの荘園、鳥目等の寄進があり、十六余の僧坊が甍を並べて郡中比べるもののない霊刹であったと伝えられています。

715年の前後には
 708年 和同開珎が作られた
 710年 平城遷都
 712年・720年 記・紀編纂(記紀の話)
 716年 吉備(下道)真備、僧玄昉ら入唐
 733年 東大寺の起源
 747年 大仏の鋳造開始
 766年 広野(のちの伝教大師最澄)誕生

本尊 千手観音像

移転

鎌倉中期の弘安五年(1282)に大火災に遭い、山上の全堂宇を焼失しました。  大火の翌年現在の地に移して再建され、円城寺と改称されました。当時の住職蓮信法印は高徳の誉れも高く、旧観に勝る寺門の復興を為し、山内塔中十四ケ坊、末寺六ケ寺を数えました。

地蔵院

塔中-東楽坊、中之坊、西蔵坊、実相坊、北之坊、畑之坊、鳴之坊、三教坊、明静坊、福蔵坊、松本坊、外二ケ坊。末寺-杉谷村千光寺、井原村青木坊、上田村厳浄坊、年末村智教坊、江与味村玉泉寺、上田村中之。塔中めぐりは円城ふるさと村のウォーキングコースになっています。地図はこちら。  当時の山内境内地は現在のおよそ5~6倍もあったと推測されますが、その後興亡を重ね、塔中末寺の多くがなくなり今は医王院(松本坊)、地蔵院(福蔵坊)の二ヶ寺を残すのみです。

医王院

鎮守創祀と宝篋印石塔

また鎮守提婆天も此の頃創祀され、近郷の崇敬をあつめて今になお備前・備中・美作をはじめ県内外遠近の参詣者が続いています。
 北之坊に建立された宝篋印石塔には「延文二年、僧蓮有」の銘があり、岡山県重要美術品に指定されています。

鎮守提婆宮護摩堂

池田藩との関係

 徳川時代には、備前藩主池田候より年毎に寺領二十石が附与せられ、家老日置氏(金川に陣屋)の菩提寺として崇敬篤く、寄進された石灯篭や桔梗紋の什器数点が現存しています。また法主の外出には供立三十二人を揃えた所謂大名行列を許されていたと伝えます。

天保の大火

 徳川末期天保四年(1833)の大火は今なお当地の古老に語り継がれています。門前町の一角、民家から出た火は風にあおられて大火となり町並全部が類焼し、当寺も再びすべてを失いました。現存する堂宇のほとんどはその後の再建にかかるもので、什器宝物の類の多くもこの時焼失したと云われ、後年一時荒廃した時期に散逸したものもあって、1300年になろうとする歴史を持つ古刹ながら、それに相応しい建築・什宝類が現存しないことが惜しまれます。

近年

 過ぐる第二次大戦の傷痕も、新しい平和社会の進展と共に今は次第に消え檀信徒、近郷の皆さまの深いご信仰と多大のご協力を得て去る昭和35年大梵鐘の再鋳も成り、また平成6年には本尊中開扉供養慶讃の吉晨を迎えるのを機として全堂宇の大改修を行ってようやく面目を新たにし、各家先祖歴代並びに有無両縁一切精霊の永遠の安息のため、また今や全人類悲願の世界恒久平和の進展と、檀信徒皆さまのご幸福のため、天台正法宣流の道場として一層の発展を遂げようとしている円城寺です。