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    〔山門〕
 楼門(二階造り)、円柱、瓦葺、他の諸堂と同じく徳川末期の再建であるが、本堂とともに天保焼失前すなわち本宮山からこの地へ移り再建された当時(鎌倉中期)の様式を深くとどめている。安置の仁王尊像は総丈2.12m、由緒未詳であるが彫刻のすばらしさから、山門より古い作品と思われる(写真下左)。

〔鐘堂〕
 楼造り二間四面、瓦葺。焚鐘は昭和35年再鋳、百八貫(写真下中央)。     
           
  〔芭蕉句碑〕                                                            (写真上右) 
 本堂の東側、水中に弁財天祠を祀った池の北角、柿の大樹の下に建っている、高さ2mほぼ三角柱形の自然石の句碑。「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり・はせを」と彫ってあり、一面に[嘉永戊申冬建之」、他面に「行脚長起下鴨菊雄」とあリ、文字はいずれも達筆で彫り込みも深い。
今由緒は詳かでないが、察するに下加茂辺りの雅人が芭蕉を偲んで長途の俳句の旅立ちにあたり建てたものかと思われる。 
 
       
  〔宮殿通用門〕
 現存する建物のほとんどが天保の羅災以後に再建されたものである中、この門のみが不思議に災火をまぬがれている。建築年月、由緒など末詳ながら尺角の樺木柱、妻にはめられた菊の彫刻 に見る豪壮なノミの跡も苔づいて一段と古めかしく、或は鎌倉中期再建当時のものかと思われる。棟の鬼瓦には寛政三年の銘がある(写真下左)。↓   
       
  ↑ 〔収蔵庫〕 
昭和45年、旧土蔵を改修して宝・什物・古文書記録類を保管している。1階は陳列室となっている(写真上右)。   
     
  〔岸田吟香落書き〕
 
当山に残された吟香さんの落書きについては二説ある。その一つは鎮守提婆天護摩堂東側の白壁に、「深山大沢必出龍蛇」の八字を大書したもので、一字の大きさは余程二十センチ平方ぐらいはあろうか。「併和住人」と落款があり、従前大方の紹介は此れを本物としている。もう一説は、本堂の正面左側二本目の欅柱にある「男児立志出郷関若不成学死不帰」の二行で、この方はおとなしい筆致、墨もうすれ二行共下の方は消えかかって落款署名も有ったのか無かったのか、現在では肉眼では見えない。
或る人は、吟香さんは十三・四才の頃、志を立てて初めて東京へ出る時、当山に参詣してこの落書を残したもので、いかにもそれらしい文句と、若い筆跡を指してこれをとり、一方壁説の方は、落款も明らかで気宇広大な語意と筆勢は、当時の吟香さんを偲ぶにピタリだと云う。
私は両説をこう考えている。尋ねてみると、吟香さんの遠い姻戚関係が近くは上田西、或は新山 の福沢方面にもあり、割合に度々の訪問があったと聞く。すなわち、大志を抱いて上京する前なにかの都合でこの方の知人宅を訪ね、その帰途当山に立寄って観音さまに祈誓をし、本堂の柱に落書きを残した。後年(もちろん未だ大成していない時代)再び所用が有って当地をまわった時、ふと往年を回顧して当山に上り再度、護摩堂に大書した。
それはそれとして、或る時このままでは吟香さんの落書きが消えて無くなって仕舞う、金網でも張って保護すべきではないか、と忠告してくれた人があった。私は苦笑した。軸物、扁額、書翰類の筆跡なら文句は無い。しかし、いかに名士のそれであろうとも落書きは落書きである。しかも文化財を汚したその行為は譴責の価はあっても保護するてはない。吟香さんだとて、この落書きをした頃はただの少年であったはずだ。とすれば今時の青少年だとていずれも同様遥かなる青雲洋洋たる前途、いつ誰がいかなる名士・偉人・成功者になるかもわからない。この若者達の落書きと前者と何の択ぶところがあろう。今日文化財を汚損することは法で禁じられているばかりでなく、公共物を大切にすることは現代文化社会人の必須のエチケットである。一方を愚劣とし、一方を顕彰しようとすることは矛盾ではなかろうか。吟香さんも、私と同様苦笑していられることと思う。

  
  縁起物語
当山の縁起書にその濫觴をたずねると。
筑紫の賊徒追討のため(元正)天皇の太子が自ら発向せられたところ、凶徒が咒詛したのか本州(備前)牛窓で病気に罹られた。諸郷一同にこの山の観音に祈誓させられたところ、当山の常灯明の光が提かに牛窓の海面に映り、光の中に観音のお姿が現れると不思議に直にご平癒になった。この奇瑞を大変に感じ喜ばれた太子が随臣らと共に本宮山に参詣されたが、山深く日没となって道に迷い行きづまって暫く休息されることになった(この所を今に「御所ケ谷」と云い伝える)。すると何処からともなく一匹の白鹿が現れて、太子の前でさそうかの様子に見える。お前が本宮山への道案内をするか、と云う間もあらず先に立って進むので、一同がその後に従って幽谷をよじ登って行くと程なく山上に達し、鹿は忽ち飛び去って行った。これまた観音の示現であろうと、此処に社を造り神として祀られた(今の化気大明神がこれである)。太子は暫く当山に参龍して病気平癒の報謝と、筑紫の朝敵降伏の祈願をこめられ、やがて討伐に向われると数日にして賊は平定したのでお喜びはいよいよ一方ならず、多くの荘園を寄進せられてやんごとなき大伽藍となったのである。

また、第八十八代高倉天皇の皇女(室町女院と云う)はしばしば病気に罹られるので、陰陽の頭(うらないの勝れた人)の告げによって、背丈高く修行の深い僧を探して居られた。当寺の蓮海上人は身長六尺余りであったが、そのことが伝わると観音の方便のお力で一夜の間に一寸ばかりも背が伸びて、丁度うらないに当てはまることになって、内裏に召され祈祷加持をしたところ忽ちに全快されたので、それから毎年銭三百貫を賜り寺門はますます栄えた。
 
   その後盛衰を重ねたが、蓮信法印は徳高く大いに寺門を復興した。或る年この地方は大早魅で郷民が大変苦しんだ時、雨を請い一心に祈っていると眼の辺りに不思議な化人が姿をみせ、蓮信を連れて本宮山頂に上り、指し示してこの場所で祈誓すべしと告げた。法印は喜び一念を籠めて祈願すると五頭の龍が現れたと見るや、雲云が起り、雷鳴とどろいて即時に恵みの大雨となり潤いわたったので、上下の人々はやっと救われてその徳を慕った。その聖跡に岩屋を造り中央に龍王、左に化人、右に雷神の像を安置して永く雨請いの霊地とした(この伺は現在も山頂に残っている)。今に郷民の伝え知るところである。


この様に霊験あらたかなご本尊であるため、三十三年ごとに開扉して有縁の人々が大悲の恵に浴するの慣しとなったのである。古くは文化七年の春、当住舜栄法印が開扉供養を勤められ、次いで天保十三年がその年に当たり、以来かぞえて開扉供養を勤めることになった。 

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   2011.3.20 難波さん撮影  ページトップヘ