戦 国 史 跡 ウォーキング 

上加茂合戦跡巡り

第七回 平成23.4.17(日)  上加茂合戦跡巡り
天正8(1580)年毛利・小早川軍(輝元や隆景の勢力)の侵攻に対し宇喜多系である津高郡虎倉の城主伊賀氏(久隆)が抗し、毛利を崩したとされます。虎倉合戦。伊賀方では片山さんが活躍。どちらも今に続く姓ですね。
天正8年といえば、秀吉が三木城を落とし別所長春を自害させました。その1年前の天正7年には織田信雄軍が伊賀国を攻めますが果たせず、1年後の天正9年には信長自ら軍を向け伊賀柏原城を落としました(天正伊賀の乱)。こちらは伊賀の国の出来事で、 虎倉の伊賀さんとは直接の関係はありませんが。
信長は2年後(1582)に本能寺の変で命を落としました。とにかくものすごい時代の出来事です。
伊賀久隆は1578年、毛利方であった宇喜多軍に従って上月城攻めに参加。上月城は落ち、尼子は滅びます。
1579年には宇喜多直家に従って織田側に転じる。これ以後織田方の最前線で毛利勢に対することになる。
1580年上賀茂合戦では、備中竹の荘に構えた本陣から出撃してくる毛利勢を、鉄砲隊などで撃破。毛利の加茂崩れを起こす。
しかし1581年4月謎の急死。(同年末には直家が病死。)その後1582年には羽柴勢による高松城の水攻め、本能寺の変。
伊賀久隆の子与三郎家久は父の死に直家の意志を感じ取り、毛利方についたといわれます。
秀吉が大返しに先立って岡山を訪れたとき、直家の跡を継いだ、まだ10代の秀家は沼城まで見送った。これを与三郎が襲ったという話もあります。 

金川城址へ bubu3世さんの動画です。

平成29年3月8日。臥龍山上の別名玉松城跡へ登る。
承久の乱の功により備前が松田氏に所領として与えられ、松田盛朝が最初の築城を行う。松田氏はその後富山城(岡山市北区)に移っていたが、応仁の乱に際して再び金川に拠点を移す。
難攻の城といわれ落ちることがなかったが、内通のため宇喜多に攻略されついに滅ぶ。
関ヶ原合戦ののち宇喜多は改易。備前は小早川家となるが、小早川秀秋は金川を廃城とした。
江戸時代池田の家老日置氏は金川に陣屋を置いたが廃城は放置された。

鍋谷城へ

平成28年10月31日、津賀公民館主催の「てくてく歴史塾」に参加して、山城 鍋谷城へ登りました。。